今回は、私が愛読している書籍の中からとってもいい話を見つけたのでご紹介します。
それは小林正観さんという方の著書「宇宙を味方にする方程式」(致知出版)に載っていたお話です。
みなさん、普段の生活の中で、
何かしら「つらいこと、悲しいこと、嫌なこと、くやしいこと」があると思いますが、
それらはもともと自分の思いが先にあって、
思い通りにならないところからきている、
というのがお釈迦様の言ったことです、東洋哲学的思想です。
「でも実際にはつらいこと、悲しいこと、嫌なこと、くやしいことがあるでしょ!痛いものは痛いんですよ!」と思われるかもしれませんが、
どうやら違うようです。実は「痛いものも痛くない」そうです。
ある動物学者がラジオでこんな話を女性アナウンサーにしていました。
「実はね、動物って痛みを感じないんですよ」
「え~?動物だって怪我をしたり、銃で撃たれたり、罠にかかったりしたら痛みを感じるんではないんですか?」
するとその動物学者はこう答えました。
「骨が折れたりして、歩きにくくなり片足で歩くことはありますが、痛みは感じないんです」
アナウンサーはさらに質問を続けます。
「どうしてですか?」
はい、みなさんはどうしてか分かりますか?
動物学者はさらりとこう答えました。
「言語がないからです」
痛みというのは
痛いという概念を言葉に置き換えて認識したから
痛いというようになったのであって、
痛みを感じるのは人間だけだそうです。
たとえば子どもが転んで、
親がダーッと駆け寄り「痛かったね、大変だよね、でも泣いちゃだめよ」と言い聞かせると、
子どもは
「あ~、これが痛いというんだな。この痛みは泣くぐらいの痛みなんだ。普通だったらこの痛さで泣くべきなんだ」
と学習するそうです。
動物学者はさらに、「言語による学習によって痛みは始まる」と言いました。
だから痛みというものを言語に置き換えていなければ、
実は永久に痛みは感じないそうです。
神経がピリピリと信号を送っているけれど、
それは痛みとは捉えていない。
だから「痛くない」そうです。
子どもが転んだときに「我慢よ」と言ってしまうと、
子どもは「これは我慢すべき痛さなんだな。じゃあ、これは我慢せずに泣いてもいいんだな」と学習してしまいます。
だから何も言わずに普通に手を差し伸べて,
ひょいと立たせて、
一緒に歩くというぐらいの淡々とした生き方の方がいいそうです。
痛みというのは学習です。
人間が痛いと思っているのは実は「痛い、痛い」と親が教え込んだから痛い。
それだけのことだそうです。
おもしろい実験があります。
ペアを組んで、つねられる方とつねる方の役割を決めます。
アザができるほどつねってはいけません。
普通につねってください。
そしてつねられている時に「ありがとう、ありがとう」と言ってつねられる場合と
「バカ野郎、この野郎」と言ってつねられる場合の痛みのちがいを比べてみてください。
すると痛みのちがいに気付くと思います。
人間は外的環境によって定常的な反応を示すのではなく、
自分の感情に伴って体が反応するそうです。
心地よい言葉を聞きながら、
自分で心地よい言葉を言いながらつねると痛みを感じようとしても、
痛みは感じにくいそうです。
自分の受け取り方次第で、物事は良くも悪くもなるというお話でした。私も肝に銘ぜねば(笑)。