子どもには幸せになってほしいというのは親なら誰しもが思うもの。
ところが、「これ」をやってしまうと百人の子供が百人とも不幸になってしまうというお話です。
正法寺住職 青山俊董尼『泥があるから、花は咲く』幻冬舎より。
大型連休に入った日、たまたまタクシーの運転手が語りかけてきました。
「今家族五人、連休を利用して海外へ遊びにゆくというのを空港に送ってきましたが、金持ちに生まれた子供はかわいそうですな。
いつでも行きたいところへは連れていってもらえる。
ほしいものは何でも買ってもらえる。
金は一生ついてまわるもの、などという中で育ってしまうと、自分の欲望にブレーキをかけるということも知らずに育ってしまいますし、行けて当たり前、買ってもらって当たり前で、喜びをいただくアンテナも立ちません。
そこへゆくと私などは十二人兄弟でしたから、親は育てるのに苦労したと思いますよ。
焼き芋一つも十二人で二つか三つしか買ってもらえないじゃないですか。
一つの焼き芋をみんなで分けあって一口ずつ食べたときのおいしさは忘れられません。
一口の焼き芋を、こんなに喜びの中にいただけるのは、貧しい家に育ったお蔭です」
禅家の大説法を聞く思いで耳を傾けていた私は、思わずこんなおしゃべりをしました。
「『百人が百人の子供を間違いなく不幸にする唯一の方法は、いつでもほしいものは買ってやる。行きたいところへは連れていってやることだ』とルソーが語っていますね。
ああしたい、こうしたい、あれがほしい、これがほしいというわがままな私を野放しにせず、しっかりと手綱さばきのできるもう一人の私を育てることこそ大切なことであり、それが親の責任でもあるのですがね」と。
道元禅師のお言葉に「遠近の前途を守りて利他の方便をいとなむ」というのがあります。
その人の、あるいはその子の遠い将来のことまでも考えた上で、今どうしてやるべきかを考える、というのです。
ヨーロッパの家庭であったことです。
食事の最中に子供が騒いだ。
父親が厳しくたしなめて食事をさせませんでした。
居あわせたE氏が、「少し厳しすぎないか」というと、父親はいいました。
「今叱らなければ、子供の心が死んでしまう。
一度や二度食事をとらなくても、子供の体は死にません」と。
その人の、あるいはその子の、少なくとも一生という展望の上から、今どう対処すべきかを考える、それがほんとうの愛というものであり、親切というものでありましょう。